かつては日本で早くから外国と接し、国際都市として世界の流行を真っ先に取り入れていた長崎。平戸ではポルトガル船との交易、長崎の出島ではオランダ船との交易など開港都市として栄え、その歴史遺構は現在まで残り、目にすることができます。また、日本におけるキリスト教史でも世界遺産にも認定された潜伏キリシタン関連の地域が点在しています。多くの離島や半島を有し、九州本土と五島列島や壱岐・対馬など地域ごとに異なる魅力的な観光地を有する長崎県の見どころをご紹介。
長崎県とは
長崎県は、多くの離島や半島を有し、島数は594(有人島は72)にも及び、県の面積の45.5%は島の総面積にあたります。九州本土と五島列島や壱岐・対馬など地域ごとに異なる魅力的な観光地を有する長崎県には、中国や韓国、欧州との交易、日本におけるキリスト教などの歴史や文化、島と海岸線が織りなす美しい自然景観など多くの訪れたいスポットがあります。
五島列島
九州最西端に位置し、140あまりの島で構成される五島列島。その魅力のひとつが素朴な教会群。教会の多くは今なお信者の方々が通う、現役の教会として使われており、五島列島で暮らす人々の生活と教会が如何に密接に関わっているのかを、強く感じることが出来ます。 教会建設の費用には、ある地域では生活を切り詰め、ある地域では家財を売った私財が使われたりしました。それ故、欧州などの教会に比べたら、民家のように規模も小さく、ステンドグラスの代わりにガラスへ直に手書きで色を付けたり、木材の柱に手書きで豪華さをあらわす木目を描くことで費用を抑えながらも様々な工夫を施し、禁教時代に決して認められることがなかった、自分たちだけの祈りの場を作り上げました。
五島列島の潜伏キリシタン関連の教会は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』に含まれます。
また、日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」にも認定されています。
特集記事「五島列島のおすすめグルメ・スイーツ~名物には歴史と伝統がある~」はこちら
壱岐
壱岐島は、福岡から北西に約80kmに位置し、島の周辺には大小23(有人島4、 無人島19)があり、それらをあわせて壱岐または壱岐諸島と呼びます。日本と韓国や中国とほぼ中間に位置し、古代から海上交通の要衝であり、交易や交流の拠点でありました。その歴史は古く、弥生時代後期(3世紀末)には「一支国(いきこく)」として、中国の歴史書『魏志倭人伝』に記されてもいます。日本最古の歴史書『古事記』(イザナギノミコトとイザナミノミコトの国生み神話~推古天皇まで)のなかでは、日本の国土の中で5番目に生まれたのが伊伎島(いきのしま)と記されています。そのため、壱岐島は神々の島と呼ばれ、島内には国生み神話のなかに登場する神々を祀る神社が多く存在します。
日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」に認定。
対馬
対馬は、中心となる対馬島周辺に大小108(有人島6、 無人島102)があり、それらをあわせて対馬諸島(または対馬列島)と呼びます。九州最北端の島で、九州本土からの距離は約130kmに対し、韓国の釜山までの距離はわずか約49.5kmです。『魏志倭人伝』に記され、古くから大陸と交易を結び、海上交通の要衝でした。また日本、九州本土より大陸と近いため、自然と国境の島として大陸からの攻撃に備え、7世紀には日本史で有名な防人(さきもり)が配備されました。対馬は、古代から、豊臣秀頼、徳川幕府、第二次大戦に至るまで国防の最前線の島として歴史を有し、それらを物語る場所が残っています。島の89%を森林が占め、原生林が多く残る、自然豊かな島でもあります。
日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」に認定。
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長崎市
長崎市の観光名所は多く、1日では全部を見切れないほどの見どころがあります。テーマで観光名所をくくると日本における世界の最先端国際都市だった歴史を辿るとしたら、出島やグラバー園、長崎孔子廟、長崎新地中華街、亀山社中記念館。潜伏キリシタン関連遺産の歴史を辿るとしたら大浦天主堂、浦上天主堂、日本二十六聖人記念館。戦争と平和関連では長崎原爆資料館や平和公園、如己堂、一本柱鳥居など。旅の日数や時間に余裕があり、天候に恵まれれば軍艦島クルーズに乗船もオススメです。
大浦天主堂は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』、グラバー園にある旧グラバー住宅などの洋館群は、世界遺産『明治日本の産業革命遺産』です。
佐世保市
旧海軍の軍港を有していた佐世保は、現在では海上自衛隊とアメリカ海軍基地が置かれています。海軍工廠の施設跡に設立された佐世保船舶工業(SSK)、アメリカ海軍からレシピを教わったハンバーガーから発展した佐世保バーガー、戦後に建設された960mにも及ぶ日本一長いアーケード商店街など戦前戦後の歴史を感じさせられる長崎県のなかでも独特な都市です。また、石岳展望台や九十九島観光公園から眺める九十九島、佐世保市街地を一望する弓張展望台など佐世保周辺に広がる美しい自然景観も楽しむことができます。
日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」に認定。
黒島
佐世保市から西へ約12km、佐世保本土と平戸島南端部のほぼ中間地点に位置する黒島は九十九島の中で一番大きい島です。江戸時代のキリスト教禁止令により、外海から五島に逃れた信徒たちが、新たな移住地を求めて目指した島の一つでもあります。1865年(慶応元・元治2年)長崎の大浦天主堂で信徒発見から早2か月後に黒島の信徒20人が大浦天主堂を訪れました。その後、まだ禁教が解かれず迫害がある中で、島内信者全員がカトリックに復帰しました。島内には、カトリック復帰後に建築された黒島天主堂、黒島に着任したマルマン神父も埋葬されているカトリック墓地など潜伏キリシタン時代からカトリック復活後の歴史を見られる史跡が残っています。その他、巨木のアコウの木や大サザンカ、オリーブ農園、海を臨む展望台など長閑な自然景観も見ることができます。
黒島の集落は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』に含まれます。
外海地区の出津・大野(西彼杵半島)
西彼杵半島の外海(そとめ)の出津(しつ)集落と大野集落は、禁教時代は表向きは仏教徒となり潜伏キリシタン信仰を密かに守り続け、禁教後の1879(明治12)年に外海地区の主任司祭として赴任したド・ロ神父の設計や指導によって黒崎教会や出津教会が建立され、村人が自立して生活できるよう職業訓練所やマカロニ製造所、機織り工場、授産場などを造りました。また、遠藤周作著『沈黙』の舞台は外海にあった村がモデルともいわれ、外海地区には遠藤周作文学館と沈黙の碑があります。
外海の大野集落・出津集落は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』に含まれます。
平戸市
平戸島は、九州の本土における最西端に位置し、中心となる平戸市は、長崎最西端の平戸島全体から平戸大橋を渡った先の九州本土側の一部にまたがり、さらに生月島、度島、的山大島までに及びます。戦国時代のさなかである1550年(天文19年)、ポルトガル船が平戸に来航。長崎県内において、平戸と豊後(現在の大分県中・南部)が開港しました。南蛮貿易というと長崎が有名ですが、長崎よりも早い時代に南蛮貿易をしてしていたのが平戸でした。長崎港がポルトガル船に対して開かれたのは、1571年(元亀2年)と平戸港が開かれてから約20年もあとのこと。
このように早くから異国と関りを持っていた平戸と周辺地域の歴史は複雑で深く、平安時代から韓国や中国との交易の歴史、江戸時代の南蛮貿易、そして潜伏キリシタンの歴史など興味深い歴史が多くあり、遠出をしてでも訪れたい場所です。
平戸の聖地と集落は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』に含まれます。
特集記事「日本初の南蛮貿易都市・平戸観光お勧め5選」はこちら
島原
1637年、島原藩主松倉父子による暴政(過酷な課税)と幕府の禁教令(キリシタン弾圧)、さらに飢饉が重なった事で追い込まれた島原と天草の主に農民が起こした反乱。島原の原城における3ヶ月の籠城戦の後に幕府軍が一揆軍を鎮圧し、原城は徹底的に破壊され、一揆軍は全員処刑になりました。『島原・天草の乱』の最後の舞台となった原城跡は、島原半島の南、城の東側に有明海を面する丘の上にあります。島原の乱後は完全に解体され、長らく土の中に眠っていた原城ですが、1980年代に入ってようやく発掘作業が本格化し、2018年には世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されました。原城跡を訪れた際には、島原におけるキリシタンの歴史を学ぶことができる有馬キリシタン遺産記念館も訪問すれば、より一層、島原の歴史を深めることができます。
原城跡は、世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』に含まれます。
特集記事「島原の乱とは、原城跡に天草四郎と一揆軍の場所と原因を辿る」はこちら
《オンライン説明会》長崎の離島・半島に息づく歴史と自然を辿る旅
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